トランスコスモスの福島が、最新のマーケティング事情についてゲストを招いて語らう対談。第1回目は1980年花王に入社後、事業部門でブランドマーケティング業務に14年、デジタルマーケティングに13年携わった石井龍夫氏をお招きしました。対談ではこれまでのマーケティング1.0から現在のマーケティングの実情についてお伺いし、さらに今後の展望やマーケターに求められる仕事について語り合っていただきました。
福島:石井さんはマーケターの育成では日本一といえる花王で、マーケティングの基本から勉強されてデジタルマーケティングにも早くから取り組み、それを実際に成功させられた方です。マーケティングの歴史と最先端の両方を知る石井さんに、これからのマーケティングについての示唆をいただきたいと思います。
石井:長くマーケティングに携わる中で感じるのは、マーケティングとは市場創造の学問であり、技術であるということです。市場創造の原点は、お客さまに「商品を買いたい」「サービスを使ってみたい」という気持ちを起こさせていくことです。こうした考えをもとに、コトラー氏のマーケティング理論を振り返ると、共感できる点がたくさんあります。私の花王での経験と重ねてお話ししましょう。
長年の時を経て本来の姿に戻ったマーケティング
石井:花王という会社は、今年で創業130年になりますが、創業者である長瀬富郎の「品質のいい国産石鹸で、顔や手を洗って清潔で健康になってもらいたい」という思いからスタートしました。これはお客さまの課題を解決する商品を作れば、間違いなく売れるというマーケティング1.0の活動でした。売れる商品を作っていくと、当然ですが追従する競合が出てきます。そうなると、自分たちの商品は数多くある商品とは違っていて「選ぶべき理由」があるというメッセージを伝えるマーケティング2.0の時代になっていきます。
花王でいうと、それまで4.1kgという大きな重い商品だった衣料用洗剤を、主婦の方が片手で持ち運べるコンパクトな商品として「アタック」を提案し、販売価格の高さにも関わらずたちまち市場から選ばれる結果となりました。これはお客様の課題を解決した、マーケティング1.0の代表例です。
また歯磨き剤は、「選ぶべき理由」を競ったわかりやすい例です。各社は「他社の商品は虫歯予防だが、うちの新商品は美白効果がある」または「口臭予防ができる」と、市場をセグメンテーションしながら、売り上げ拡大を目指しました。これがマーケティング2.0の戦略です。ところが市場が飽和していくとどの分野でも認知できる品質や機能に差をつけることが難しくなり、セグメンテーションされたセールスポイントによって商品を「選ぶべき理由」を提供できなくなっていきました。そうした時代にコトラーが唱えたのがマーケティング3.0の価値創造のマーケティングでした。
ESG(環境・社会・ガバナンス)、SDGs(持続可能な開発目標)に即しているといった社会的価値、あるいは「この商品の広告は、自分の感性に合う」「このパッケージは、自分のライフスタイルに合う」といった情緒的な価値が、お客さまの購買を後押しするようになりました。つまりこの段階でマーケティング1.0と2.0で行われていた不特定多数に対するマーケティングが、個人に対するマーケティングへと変化してきたんですね。
さらに進んでマーケティング4.0では、お客さま一人ひとりのさまざまなモードやモーメントに寄り添って、お客さまに商品・サービスを選ぶ理由を提供するようになります。たとえば赤ちゃんをベビーシッターに預けて夫とディナーをし、妻モード=「妻である自分」を楽しんでいる時の女性のスマホに、おむつのデジタル広告が表示されても受け入れてもらえないでしょう。お客様のモードを無視しては、寄り添うことにはなりませんよね。最適なモーメントを選ぶ、これが、コトラーがマーケティング4.0で提唱した自己実現のマーケティングに重要なのです。
ただし、顧客体験をお客さまのモーメントに合わせて管理し、最適なタイミングで提供するというマーケティングは新しいものではありません。江戸時代、日本橋の魚河岸で魚を仕入れた魚屋は、その日に仕入れた魚をきれいに売り切るために頭を懸命に働かせて、どの得意先の誰にどんな提案をすればいいのかを考えました。これは現在のデータドリブンなマーケティングとなんら変わりません。今のデジタルマーケティングでは、膨大なデータ処理にAIなどを活用しますが、お客さまごとに最適なタイミングで、最適な顧客体験を提供するという目的は同じです。
江戸時代と最新のマーケティングの本質が変わらない。このことをひっくり返して考えてみると、商品を作って大量の広告を打てば買ってもらえた時代は、一時的な夢、幻だったといえます。なぜなら、人々がありがたがってテレビの広告を見ていた時代は、企業とお客さまの情報のアンバランスによって成立したものだったからです。お客さまをきちんと理解しながら、お客さまにとって最適なサービスを提供することにより、市場創造を行っていたわけではありません。インターネットが登場しデジタル化が進むことで、市場創造という本来のマーケティングに戻った状況にあるのではないでしょうか。
福島:非常に鋭い洞察を聞かせていただきました。確かに情報のアンバランスが過渡的な現象を起こしたのだと思います。従来までは、メーカーは世界中に広告を流すことができる一方で、一般生活者は世界中に情報発信をすることはできませんでした。しかし、今はインターネットやSNSを使うことができるようになり、企業と消費者の情報格差が一気に縮まりました。当然、このことによりマーケティングの実務も大きく変わってきました。今まではテレビ広告を中心とするマーケティングプランを立てればよかったのですが、ネット系のメディア、OOH(OUT OF HOMEメディア)を中心に据えてトップシェアを獲得するようなブランドも出てきました。
石井:企業とお客さまの持つ情報量は均等化してきたわけですが、今度はバランスが逆転し始めています。カメラを趣味にするお客さまが家電量販店に行って、新製品を購入するシーンを考えてみましょう。店頭に常駐するカメラメーカーの社員よりも、カメラを趣味にする人の方が他社製品との違いに詳しいことは当たり前です。しかも、他店との価格や特典の差までネット検索で頭に入っている。このように、いろいろなところでお客さまのオタク化が進み、なおかつその人たちがSNSでさまざまな情報を発信し、商品の購買に大きな影響力を及ぼす時代になってきています。そうした中で購買がゴールではなくなり、お客さまが商品を使った時の共感や感動を友達や知人に発信して頂けるという、アドボケーション(推奨)が起こせるかが、マーケティングの中で非常に重要になってきているのです。
緻密なコミュニケーション設計で“情報の親近感”をつくる
福島:私はマーケティング4.0のアドボケート(推奨)に関連して、解釈に苦労したキーワードがありました。それは“親近感”です。「どうして“親近感”がアドボケートにつながるのかな」と思っていたのですが、執筆に携わった人たちから、「情報の“親近感”」であることを教わり、理解することができました。
単に「この水はおいしいよ」と言われても、特に人に伝えたくはならない情報ですが「この水は山梨県の○○村地下300m、富士山の伏流水が30年かけて湧き出る水系から採った」という風に言われると、“親近感”が高まり「富士山から30年かけて、というのはすごいな」という感情をつくりだし、「ねぇ、この水はおいしいよ」と友人や知人に伝えたくなるのです。今までは「情報の錯綜をコントロールできない」と思っていましたが、「メーカーからの情報の出し方ひとつで伝わり方を変えられる」とわかりました。デジタル化が進みカオスのように見えますが、決して情報がアンコントローラブルになっているのではなく、ただ従来の管理方式が使えなくなっているということなのです。
石井:情報の“親近感”というのは、誰にどのタイミングで伝えるかというコミュニケーションを緻密に設計して初めて出てくるのだと思います。
私は2003年に花王でアジエンスというヘアケア商品を立ち上げました。その時は「お客さまの情報格差をあえて作る」という戦略でコントロールを図りました。最初にデジタル広告やウェブサイトで情報感度が高く、発信力の有る人に優先的に情報を伝え、その人々からフォロワーへと情報を伝えていこうと考えたのです。通常はターゲットの裾野の広い順番でメディアを使うところを逆にし、何週間かディレイさせながら情報を発信し、テレビの広告が出る前に情報感度の高い人だけがその商品を知り、口コミをしたくなる状態を作ったのです。
福島:これまでの情報発信戦略は、どの程度のGRP(Gross Rating Point/TVCMの延べ視聴率)出稿し、何パーセントの人に知らしめるか、という方程式一辺倒でした。今は発信した情報がどういうふうにつながっていくか、どういう浸透プロセスを取っていくかを意図的にコントロールしていかなくてはならないということですね。
石井:マーケティング1.0、2.0のコミュニケーション戦略は、ひたすらターゲットへのリーチと認知をゴールにしてきたわけですが、実は既にその戦略は崩れています。マーケティング3.0、4.0の時代となり、デジタル化によってコミュニケーションをめぐる環境が雪崩のように変わりました。今はそのことにようやく多くのマーケターも気がついた状況ではないでしょうか。
福島:私も最近さまざまなお客さまからの依頼で5Aの各ステップを測定する中で、リーチと認知だけを追いかけてきたことの意味のなさがわかってきました。ある調査ではテレビで認知した人たちの購入率は1ケタ%だったのに対し、SNSで認知した人たちの購入率はほぼ100%だったというデータもあります。こうした測定結果を見ると、認知とは数字に表れた“高さ”だけではなく、ターゲット一人ひとりにおける“深さ”が重要なのだと痛感しました。
技術と、マーケターとともにあるマーケティングの未来
福島:マーケティングという活動は、技術環境によって制約されてきました。今CRM(Customer Relationship Management/顧客管理)やCX(Customer Experience/顧客体験)が注目される背景には、膨大なデータを獲得し分析できるデジタルテクノロジーの発展があります。また今後、お客さま一人ひとりのニーズを理解したうえで一人ひとりへのおもてなしを効率的にやっていこうとした時に、そこには当然AI技術が活用されることになります。
未来のマーケティングを大胆に展望しようとすると、やはり技術トレンドをとらえる必要があります。私はマーケティングを支える技術トレンドは、あるひとつのベクトルに乗っていると思います。それはシングルソース※の概念です。かつては、1つ1つのデータを1つの横断面で集計することしかできなかったものが、今は1つ1つのデータを縦軸で追いかけることができます。この流れが進展していくと、企業が提供する製品も個別化していくかもしれませんし、マーケティングコミュニケーションは当然個別化していくでしょう。石井様のご意見を聞かせていただけますか。
※同一対象者から一貫して取得された、購買・広告接触・ライフスタイルなどの多面的なデータ
石井:私もマーケティングの進む方向は、パーソナライズ、それも「究極のパーソナライズ」だと考えます。コミュニケーションという視点では、映画『マイノリティレポート』で描かれている広告の姿がそれにあたります。映画の中では、街ゆく人の目の虹彩を認識して個人を特定し、過去の行動履歴を理解し、併せて今置かれた状況や感情の変化から最適な広告をその人に向けて、街頭のサイネージが発信するシーンが描かれるのです。
また商品で言えば資生堂のオプチューンが、お客さま一人ひとりの肌状態や好みに合わせて化粧品をその場で配合して創り出すというアイディアを実現しています。つまり今後は情報武装をし、よりわがままになったお客さまに向けて、「究極のパーソナライズ」を提案しなくてはならない時代が到来します。こうした環境に対して企業は、マーケティングにおいても生産においても、ITやAIを縦横に活用して対応しなくてはならないのです。
一方でAIなどの技術を活用するには、その後ろ側に「このブランドはお客さまにとって何になれるか」というビジョンが確固として存在していないと、いたずらに数を創り出すだけになり、お客さまのために創り出すべき価値の本質を見失うことになりかねません。マーケティングがAIやITによってシステム化されていけばいくほど「自社のブランドや商品が最終的にはお客さまにとって何になれるのか」という考えをしっかり固めて、関わる社内外の人たち全員に理解させることで、お客さまへ提供されるすべてが同じ方向に向かっていくようにする。一貫した顧客体験の創造、これが未来のマーケティングにおいて、マーケターの一番大事な仕事になるのではないかと思います。
対談者プロフィール
石井 龍夫 1980年花王に入社、販売部門を経験した後、事業部門でブランドマーケティング業務に14年携わる。事業部門では、メリーズ・ロリエ・キッチンケアプロダクツ・ビオレ・アジエンス等のブランドマネージャーを歴任。2003年から花王のweb活用戦略と企画運営に携り、2014年3月には、デジタルマーケティングセンターを新設、2017年1月に退任するまで花王のデジタルマーケティング活動を統括。現在は、C Channel株式会社の監査役を務める傍ら、アドビシステムズ株式会社および、株式会社イーライフの顧問や、日本マーケティング協会マーケティングマイスター、日本アドバタイザーズ協会デジタルメディア専門委員、デジタルコミュニケーション広告電通賞審査委員長、adobeマーケティング創世の会理事長などの職務に携わっている。
福島 常浩 1982年に東京工業大学大学院を修了。味の素株式会社にて多変量解析を用いた市場定義モデルの開発、マーケティング部門において家庭用新製品開発及び新事業開発のマーケティング責任者、コンビニエンスチェーンとの大型製販同盟の事業を担当。 その後、GE Capital、三菱商事、ぐるなび、メディカルデータビジョンを経て、ビッグデータ事業、デジタルマーケティング責任者等を歴任。日本マーケティング協会公認マーケティングマイスター、一般社団法人日本市場創造研究会理事・事務局長に携わる傍ら同志社大学で教鞭も取っている。2022年現在、トランスコスモス株式会社 上席常務執行役員としてマーケティング関連の事業開発を担当。