トランスコスモス 福島が、最新のマーケティング事情についてゲストを招いて語らう対談。第4回は、青山学院大学大学院 国際マネジメント研究科 教授、博士の黒岩健一郎氏にお話を伺います。黒岩氏はサービス・マーケティングが専門で、企業の顧客満足度や優良企業の研究に注力されており、さきの予測がしづらい時代のマーケティングについて『コトラーのマーケティング5.0』の世界を織り交ぜながら語っていただきました。
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企業価値と相関するマーケット・オリエンテーション
福島:黒岩先生が取り組んでいらっしゃるマーケティング優良企業の研究は、マーケティングの実務に携わる私たちにとって、非常に興味深いテーマです。マーケティングの優良企業とは、どんな企業なのでしょうか。
黒岩:マーケティング優良企業を考えるうえで重要な概念が、1990年にKohli & Jaworskiが提唱した「マーケット・オリエンテーション」です。当時、マーケティングが優秀だと業績が上がるのか? という議論が高まりました。イノベーションのジレンマで知られるClayton M. Christensen(クレイトン・クリステンセン)は「お客様の声を聞きすぎると、良くない」とさえ主張していますね。そうした中で、マーケティング活動は企業業績の向上につながるのかという研究が進められるようになり、学者たちはいろいろな指標をつくりだしました。そのうち現在にも通じる指標として残っているのが「マ-ケット・オリエンテーション」です。
市場から必要な情報を収集し使用可能な形に整える「情報生成」、情報を組織内の適切な部署に伝える「情報普及」、情報を受け取った部署が速かつ適切に対応する「情報反応」。これら3つのステップの取り組みができている企業が、「マーケット・オリエンテーション」の評価が高くなります。「マーケット・オリエンテーション」の評価結果は、企業の業績や株価と相関するという研究結果があります。私も、企業の皆さんから「マーケティング活動を改善したい」という相談を受けると、「マーケット・オリエンテーション」の3つのステップの枠組みをもとに、自社の状況をチェックすることをおすすめしています。たとえば、コールセンターの改善であれば、顧客から寄せられた苦情や意見をちゃんと蓄積、分析し、意味のある活動につなげているかを見直すべきです。
福島:コールセンターを、コスト部門ではなく経営戦略に不可欠な情報の取り込み部門としてとらえることで、「マーケット・オリエンテーション」は高まるわけですね。フィリップ・コトラーも、近著である『マーケティング5.0』において、黒岩先生と同じように市場や生活者からの情報をいかに取り扱うかの重要性を指摘しています。
また『マーケティング5.0』で、コトラーは「デジタルマーケティング」と「デジタル世界のマーケティング」は異なると語っています。デジタル化による情報革命は、コミュニケーションの在り方を変えました。特に企業のマーケティング活動の現場では、劇的な変化が起こっています。企業が上の立場から発信した情報を生活者が受け止める、という構造が壊れたのです。企業の発信する情報は、ほんの一滴の雫にすぎず、それがいろいろな作用を受けて乱反射を繰り返しながら、生活者の中をまわっていく…予測不可能な世界が生まれたといえます。
デジタル世界のマーケティングを象徴する事例に、食品宅配業のオイシックス社が2019年に埼玉県春日部駅に掲出したクレヨンしんちゃんのポスターがあります。クレヨンしんちゃんが「かあちゃんの夏休みはいつなんだろう」と春日部駅だけに張られた数枚のポスターが、SNS上で大きくバズり、全国に広がりました。これはデジタル世界以前の広告ではありえないことですよね。また、SNSをマーケティングに取り入れている企業はTwitterをリアルタイムに監視していて、「ネット上のつぶやきに対して、すかさず公式アカウントからのコメントが寄せられる」など、従来では考えられなかった企業と生活者の関係がデジタル世界では現実になっていますね。
黒岩:生活者が企業を評価するポイントが変化しているのです。そうした中でマーケティング活動におけるアジリティが重要になっています。自社が落とした一滴の雫がどう広がるか予測ができないわけですから、常に展開を見て機敏に対応しなくてはなりません。「中期計画をつくって、後は任せるよ」というマネジメントはもはや通用しなくなっているのです。ひな壇芸人の皆さんが、突然に話を振られて面白い一言がいえるかで認められるかどうかが決まるのと似ていますね。
マーケティング活動のアジリティを高めるには
黒岩:現在のマーケティングに必要なのは、「いま、ここ」という感覚です。SNSでコメントを投稿するのに、いちいち上司からOKをもらっていてはアジリティが足りません。多くのフォロワーを持っている公式SNSの“中の人”は、権限を委譲されていて、時々の状況を見ながら共感の得られる一言をずばっと言うことができる能力を持っている人だと思います。
福島:残念ですがその能力は、私たちの世代ではなく、Z世代・アルファ世代と呼ばれる人たちの方が高くなる気がします。
黒岩:一概に、そうとはいえないと思っています。アジリティは、訓練によって研ぎ澄ますことができるからです。台本を用意しない即興演劇では、共演者の即興にあわせて演技をすることが求められます。共演者の動きや言葉を予測できませんから、俳優たちはその場その場の状況に合わせて、演技をする能力を磨いています。
こうした能力は、ビジネスの世界でも有効です。否定から入る人ではなく、相手の意見に自分のアイデアを付け加えて前向きな議論につなげる人が評価される時代になっていると考えています。
福島:確かにビジネスにおいては、異なる立場から否定、肯定を訴えるディベートだけでなく、多様なコミュニケーションが発生し、いくつものアイデアを出し、重ねていくことで価値創造が行われていますね。当社もアジリティを高める訓練を積んで、良質なCX(カスタマーエクスペリエンス)をつくりだすことができる集団を目指したいと感じます。
黒岩:アジリティの他にも、CXを考えるうえで大切なものがあります。それは五感を研ぎ澄まして得る「共感」です。ユーザーがどんなものを見ていて、どんな音を聞いていて、どんな空気感のところで息をしているかがイメージできないと、CXを提案できないと思います。
福島:今、マーケティングにおいて「共感」を語る時に避けられないのがAIとの関係だと考えています。AI が「共感」をはじめとする人間の感情についてもある程度認識できるようになってきて、当社のコールセンターのサービスにも導入されています。コトラーは『マーケティング5.0』で、すべてがデジタル化することに警鐘を鳴らしており、人が介在する領域は、教育、医療、福祉といったホスピタリティ産業にヒューマン・エクスペリエンスとして必ず残るのだと言っています。私たちもコールセンターでのAI 活用を推進する中で、絶対に人が行わなくてはならない領域とそうでない領域の敷居がだんだん移動していると言う実感を持っています。
組織のアジリティをつくりだす「心理的安全性」
福島:私は1999年から所属していたGE社で、アジリティの極めて高い組織を経験しました。同社ではトップのジャック・ウエルチによりアジリティが強力に推進されていました。組織のタテ・ヨコの壁が取り払われ、ジャック・ウエルチから新入社員までがわずか4階層という体制で業務が行われていました。徹底的に権限が下の階層に委譲されて、「相当規模の投資も効率性を優先するために取締役会を経ることなく実行される」といった極めてアジリティの高い企業運営が非常に印象に残っています。
黒岩:GE社の例にあるような組織の構造だけでなく、組織の文化も大きくアジリティに関わります。ハーバードビジネススクールのエイミー・C・エドモンドソン教授が、「心理的安全性」という概念を提唱しています。心理的安全性が高いというのは、簡単にいうと「組織の中で何かを言った時に叱責されない、馬鹿にされないということを、全員がわかっている状況」です。組織の文化として「心理的安全性」が担保されていると、周囲の評価や自分の業務への影響を思い悩むことなく、自分の意見を素直に出すことができます。ひとつの意見は、他の情報とあわせることで価値を生む可能性がありますから、ひとつの意見が出てくるかどうかで大きな違いが生まれます。アジリティを支える「心理的安全性」は、組織にイノベーションを生み出すのです。
一般的には、他部門の仕事に意見を言うとうるさがられてしまうのですが、「新しい視点をありがとう」と感謝してもらえたならば、貴重な情報がどんどん集まってくる好循環が生まれます。「心理的安全性」が高い企業はイノベーションが起きやすいと言う実証研究もあります。
福島:そうですね。アジリティとイノベーションは、相互作用があると思います。ただアジリティやイノベーションを強く志向する企業は、副作用としてガバナンスの問題を抱えることが多いように思います。
黒岩:そうかもしれません。しかし、「心理的安全性」が高いという表現は、無責任で勝手な発言が許される企業には使われません。組織としての高い目標のもとで、誰もが自由に意見を言い合える文化を持っていればこそ、成り立つ状態であると考えます。
福島:そういわれてみると、私は、ルールやガバナンスを損なわない「心理的安全性」が組織のアジリティを生み出す姿を実体験したことがありました。以前にAppleの本社を訪れた時のことですが、「整然とした執務環境」と「違う部門の社員同士が雑談をするためにつくられたカフェ」が融合している空間に身を置いて、Appleの創造力の源泉に触れた気がしたのです。「自分の担当業務だからわかっていると思うけど、この部分は変だよね」と軽いノリで他部門に批判的な意見がいえる。それくらいに「心理的安全性」が担保されていることが、組織のアジリティにつながるのだと思います。
計画の立たない時代といかに向きあうか
福島:「アジリティ」や「心理的安全性」など、マーケティングに求められるものが大きく変化してきました。今まで日本のマーケッターは、マーケティングプランの軸はどこか? と問われると、おそらく90%近くが「テレビのGRP(延べ視聴率)獲得にどれだけ投資できるか」と答えたでしょう。しかし、SNSをはじめとするデジタルメディアによって広告の投入量と効果の関係があいまいになってきています。マーケティング活動は、知恵の勝負になってきたのだと感じます。さきほどのクレヨンしんちゃんの例がまさにそれでしょう。
良質なCXを提供して顧客のロイヤリティを高めようと思うなら、マーケッターはGRPだけを追うのではなく、懸命に知恵をしぼって、多くの接点での複雑なコミュニケーションをコントロールしなくてはなりません。
黒岩:マルチチャネル、オムニチャネルの時代になり、企業と生活者との接点が増えていく中で、どの施策がどのくらい効いているのかを考えるのは難しくなっていますね。またデジタルマーケティングでは、データとして効果が測定しやすいためデータばかりに注目しがちですが、データに現れていない施策が重要かもしれないという問題もあります。
福島:CX時代のマーケティングは、複雑性を増してきています。従来のマーケティング計画の軸となっていた測定、最適化にとらわれず、黒岩先生が提唱されているように、「計画に市場からの答えをフィードバックし、修正しながら実行していこう」という取り組みが求められるのではないでしょうか。決してマーケティング計画の重要性を否定するわけではありませんが、マーケティングに市場からのフィードバックが取り入れやすくなっていることは事実なわけです。
黒岩:マーケティング計画はもちろん必要ですが、「計画通りに進むと思ってはいけない」ということです。私たちは、計画が立たない時代を、コロナ過によって既に十分に体験しています。計画が立たない時代のマーケティングに携わる皆さんは、ご自身の組織の「アジリティ」や「心理的安全性」について、一度考えてみていただくといいと思います。
対談者プロフィール
青山学院大学大学院 国際マネジメント研究科 教授、博士(経営学)
黒岩健一郎
1990年、早稲田大学理工学部建築学科を卒業。2000年、慶應義塾大学大学院経営管理研究科修士課程修了。2003年、同大学院後期博士課程単位取得退学。住友商事株式会社、武蔵大学経済学部専任講師、准教授、教授を経て現職。専門は、サービス・マーケティング。主要著作に、『なぜ、あの会社は顧客満足が高いのか:オーナーシップによる顧客価値の創造』(共編著)同友館、『顧客ロイヤルティ戦略:ケースブック』(共編著)同文舘出版、『マーケティングをつかむ【新版】』(共著)有斐閣。
トランスコスモス株式会社 上席常務執行役員
福島常浩
1982年に東京工業大学大学院を修了。味の素株式会社にて多変量解析を用いた市場定義モデルの開発、マーケティング部門において家庭用新製品開発及び新事業開発のマーケティング責任者、コンビニエンスチェーンとの大型製販同盟の事業を担当。 その後、GE Capital、三菱商事、ぐるなび、メディカルデータビジョンを経て、ビッグデータ事業、デジタルマーケティング責任者等を歴任。日本マーケティング協会公認マーケティングマイスター、一般社団法人日本市場創造研究会理事・事務局長に携わる傍ら同志社大学で教鞭も取っている。2023年現在、トランスコスモス株式会社 上席常務執行役員としてマーケティング関連の事業開発を担当。